がん研究は大きく「予防」「診断」「治療」の3つの領域に分けられます。エピゲノム創薬研究室では、この3つすべてに取り組んでいます。
エピゲノムとは、遺伝子の「発現制御機構」を指します。ヒトの体は、たった1個の受精卵から出発し、皮膚、胃、神経など、多様な組織・器官へと分化します。この分化の方向性は、どの遺伝子をどのように使うかによって決定されており、その制御を担うのがエピゲノムです。このエピゲノムに異常が生じると、がんをはじめとする様々な疾患の原因となることが明らかになってきました。
【予防】エピゲノム異常の蓄積を防ぐ
エピゲノム異常の蓄積が、がんの大きな一因になる。ならば、蓄積させなければよい、あるいは蓄積したものを取り除けばよい。この発想に基づき、エピゲノム異常の蓄積を抑制・除去する方法の研究を進めています。
【診断】正常組織に潜むがんの予兆を捉える
私たちの研究における最も重要な発見は、「正常に見える組織にも、がんにつながる異常がすでに存在している」ということを世界に先駆けて証明したことです。胃がんを発症した方の胃粘膜にはエピゲノム異常が多数蓄積している一方、同年齢でピロリ菌に感染していても発症しなかった方の胃粘膜には、こうした異常がほとんど認められません。すなわち、正常に見える組織のエピゲノム異常の蓄積量を測定することで、将来のがん発症リスクを予測できるのです。
海外で見知らぬ街を歩く場面を想像してください。壁に落書きがあり、窓が割れ、ゴミが散乱している街と、植栽が整えられ、建物が美しく保たれている街。どちらに危険を感じるかは明白です。しかし、治安の悪い街であっても、目の前に犯罪者がいるわけではありません。街全体の「荒廃の程度」から危険度を判断しているのです。私たちの研究も同様で、がんそのものではなく、組織全体に蓄積した微細な異常を観察することで、発がんリスクをより正確に評価できるようになりました。この研究成果は現在、胃がんのリスク診断として実用化に向けて大きく前進しています。ピロリ菌除菌後も不安を抱える方には科学的根拠に基づいた安心を、リスクが高い方には早期発見・早期治療の機会を提供できます。
【治療】がん細胞だけを狙い撃つ創薬研究
治療研究は、私が星薬科大学に着任してから、薬学部という環境を活かして本格的に取り組んでいる領域です。「エピゲノム異常を修復すればがんが治る」という考え方は世界中で研究されていますが、胃がんや肺がんなどの固形腫瘍では、正常組織のエピゲノムも損傷してしまう副作用が課題でした。薬学部には「薬剤を標的部位にのみ送達する」技術がありますので、がん病巣だけにエピゲノム治療薬を届け、副作用を最小限に抑える研究を進めています。
その一つが、がん細胞固有の弱点を突く「合成致死(Synthetic Lethality)」の理論に基づいた創薬研究です。この研究は「箸とスプーン」で分かりやすくご説明します。

この箸のように不活化することでがんを促進する遺伝子として、世界中は突然変異による不活化に注目していますが、我々はDNAメチル化異常による不活化を利用しています。がん細胞が自ら招いた「欠損」を逆手に取ることで、これまでにない選択的かつ強力な治療法の確立を目指しています。
私ががん研究を志した原点は、中学生の時に祖母を胃がんで亡くしたことにあります。幼少期から可愛がってもらった祖母の死に直面し、がんという病の恐ろしさを痛感しました。医学部在学中も、臨床実習でがんに苦しむ患者さんを多く目の当たりにし、がん研究への志を新たにしました。
研究者としてのキャリアの初期、私はがんの原因となる突然変異の探索に取り組んでいました。しかし、懸命に研究を続けても、期待した突然変異がなかなか見つかりません。「突然変異以外にもがんの原因があるのではないか」という疑問を抱き続けていた1994年、アメリカ留学中に転機が訪れました。「ゲノム配列に変化がなくても、DNAメチル化というエピゲノムの変化が細胞分裂を通じて次世代に伝達される」という知見に出会ったのです。その瞬間、「これを生涯の研究テーマにしよう」と決意しました。以来30年以上にわたり、エピゲノム研究に取り組んでいます。
エピゲノム創薬研究室の強みは、星薬科大学が多様な分野との横断的な共同研究環境であることです。私たち生物系の研究者が「このような作用機序で疾患に効果があるのではないか」という知見を見出し、学内の化学系の研究者がそれを薬剤という形に具現化する。医学部単独では得にくい視点を含んだ創薬研究が、薬学部では可能です。
先述の「合成致死」研究では、学生たちが実際の実験を担っています。正常細胞を用いて特定の経路(箸)だけを機能喪失させる実験や、その状態で別の経路(スプーン)を阻害した際にがん細胞が死滅するかどうかを検証する実験など、薬学科・創薬科学科の3年生、4年生が研究の最前線で取り組んでいます。学生それぞれが少しずつ異なるデータを積み重ね、それらを統合することで研究が前進していく。大学の研究室とは、まさにそのような場なのです。
研究活動を通じて、学生たちは専門知識だけでなく、それを他者に伝える力も身につけていきます。研究室では、私が説明を行った直後に「今の内容を自分の言葉で説明してみなさい」と学生に問いかけます。最初はうまく説明できなくとも、繰り返し訓練することで着実に成長していきます。内容を理解することと、それを相手に伝わる言葉で説明すること。この両方の力が、研究を通じて培われるのです。
将来、製薬企業や研究機関で活躍する人材にとって、最先端の研究に若いうちから触れることは不可欠です。学会で発表し、時には厳しい質問を受けて悔しい思いをする。そうした経験が、最終的に研究者・社会人としての力となります。研究活動は、社会に貢献するための力を養う実践的な訓練の場でもあるのです。

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